最後に母から耳かきをしてもらったのは、いつのことだったろうか。

幼かった私は耳かきが嫌いではなかった。力任せにガリガリと耳垢をこそぎ出すのは痛くて加減してほしかったが、その後に梵天(反対についてる綿毛のポフポフしたやつ)で仕上げをしてくれるのは気持ちよかった。

耳かきをしてもらいながら母にいろんな話をした。「あのね、今日先生からおこられたんだけどね、ぜったいぼくわるくないんだ。わるいのはあっくんなんだ」人からしてもらう耳かきと聞いて思い浮かぶのは母しかいない。おそらく大半の人はそうではあるまいか。私たちは耳かきをしてもらうことで、甘え、許され、愛されていたのだ。

今では、その耳かきをサービスとして行っている商売があるというから驚きだ。耳かきエステというらしい。よくぞそんな需要を見出したものだと本当に感心する。でも、たとえ無料だったとしても、私は他人に耳かきなどしてもらいたくない。自分の体に空いた穴に他人から尖った凶器のようなものを差し込まれるなど、病院だけで結構である。手元が狂ってうっかり奥までブスっと突っ込まれたらどうするのか。よほど親密な人だったらいいのだろうが。きっと耳かきエステに行く人は、その親密な関係というものを求めて行くのではないだろうか。

仕事帰りのサラリーマンが耳かきエステに行く様子を想像してみた。「あのね、今日部長から怒られたんだけどね、絶対僕悪くないんだ。悪いのは田中なんだ」実際にこんな会話がされてるのかどうか知らないが、これはこれでいい話のような気がしてきた。

劇団きららの『気持ちいい穴の話』は、耳かきエステを舞台にした話である。またすごい職業を題材に選んできた。実は私は、劇団きららの作品を観るのがちょっと苦手である。いや、面白いし勉強になるし大好きなのだが、何というか、観ててとても苦しくなってしまうのだ。外側はポップなのに、内には苦しみや焦りや閉塞感がぎっしりと詰まっている。毎回、作者の池田美樹さんが普段感じているものを描いているそうなのだが、その感情がダイレクトに伝わってくる気がする。そしてそれは、年々強くなってきている。作品が変わってきてるというよりも、歳を重ねるごとによりリアルに共感できるようになってきているからなのだろう。

登場人物の多くは、社会から半歩ほどはみ出してしまったような人たちだ。最初は、自分とはかけ離れた世界の物語をガラス越しに眺めているかのような気持ちで観ている。でも物語が進むうちに、だんだんと背筋に嫌なものが這いまわっているような感触を感じはじめるのだ。舞台上の人物たちの苦しみが他人事ではなくなってくる。それは、老いであったり、仕事のことであったり、人間関係だったり様々であるが、普段自分が必死に取り繕って隠して忘れたふりをしているものたちだ。そんな無理に引っ張り出してくれなくてもよさそうなものを、わざわざ熨斗までつけて並べてくれる。気付いたときには、そこにいるのはかけ離れた世界の住人などではなく、他の誰でもない自分自身に置き換わっている。

そして願うのだ。誰か助けてほしい、と。

それは今回も同じだった。あの、人とうまく交われずに孤独を抱えている男はまるで自分だ。あの、これまでなんとなく生きてきたツケが回ってきて、今苦労している人は自分の姿だ。あの、他人との距離感が掴めずに周りから引かれてしまう女性は、まるで自分ではないか。

池田さんの作品に奇跡は起きない。皆が幸せになる保証などなく、ただ起こるべくして起こることしか描かれない。今回も同じだろう。そう思いながら観ていた。でも『気持ちいい穴の話』は違っていたことが一つあった。それは“母”がいたことだった。“母”はどうにもならない人たちを許し、甘やかし、愛してくれた。どうにも生きづらい人たちを励ましてくれた。劇団きららの今までの作品ではあまり感じなかった感想だが、観終わったとき、私は救われていた。

そうか、耳かきエステを舞台に選んだのは、この救いを描きたかったからなのか。完璧な構成と言っていいのではないだろうか。観終わって、会場を後にしながらふと思っていた。なるほど、耳かきエステというのも、もしかしたらいいものかもしれない。

音楽と演劇と妖怪が好き / 所属:あったかハートふれあい劇団、in.K. musical studio、劇団妖怪ぶるぶる絵巻 / ブログ→https://chiroboo6251.hatenablog.com/ / だいたいいつもさみしい。