ちゃぶ台を挟んで向かい合う昇平とすみえ。朝、目が覚めたら二人は同じ部屋にいて、どうやら“夫婦”になっていたらしい。夕べ何かがあったとかではなく、何か経緯があったということでもなく、ただ、ある日突然“夫婦”になってしまったのである。いわゆる不条理劇というやつだ。この後、夫婦になった理由とか、どんな謎が隠されているのかとか、夫婦とは一体何であるのかといった説明は一切なく、話は淡々と進んでいく。平田オリザ作『隣にいても一人』とはそういう話であった。

ただでさえモヤモヤが残るような話であるが、天野天街の得意とする言葉遊びや反復を用いた演出によって、作品は更に混沌としたものになっていく。天野演出はとにかく物語に没頭するのを許さない。冒頭から同じシーンの繰り返しで始まり、台詞はどこまでも言葉を追いかける。やっと普通に話が進んでいくと思わせておいたところに意識を攫う罠を仕掛けてある。まるで遊園地のアトラクションのようである。私は作品に意味を求めてしまうタイプなのだが、そんな自分をまるで「物語に意味などない、言葉に意味などない」と嘲笑われているような気にさえなった。

先ほども書いたように、この作品は不条理劇である。意味を求めるのはナンセンスだ。「意味も分からず突然夫婦になってしまった」というシチュエーションをただ楽しめばいい。それが出来ず、「必ずこの作品には深い意味が隠されいているに違いない」と信じて悩んでしまう頭の固い人間は不条理劇など観ない方がいい。理屈をこねくり回してこじつけて、何か蜘蛛の糸のように細い必然性のようなものを見つけては、答えを見つけたと喜んで周囲を呆れさせるのがオチだから。私のことなのだが。

はて、夫婦とは一体なんだろう。人はどうすれば夫婦になるのだろう。

たとえば人がまだ猿だった時代、婚姻という制度は無かった。つがいになる個体はいただろう。1匹のオスが複数のメスと関係を結ぶ一夫多妻制のようなものだったかもしれない。猿は群れの中でオスとメスが自由に関係を持ったりもするが、人の祖先もわりとそんなものだったに違いない。男女がある日突然夫婦になるのは当たり前だったのである。

例えば原始時代、男女が気ままに結婚する「共同婚」が行われていた。生まれた子は母のもとで育つことから、古代日本における母系氏族制へと繋がり、やがて男が女の側に通う「妻問婚」の形態に発展した。男女関係はきわめておおらかで、今で言う「恋愛」と「結婚」は明確に分かれていなかった。男女がある日突然夫婦になるのは当然のことだったのである。

時代が進み、婚姻という制度が確立してきてからも、おおらかな男女関係はずっと続いていた。一説によると農村部では昭和初期まで続いていたとか。一方で結婚は家と家の結びつきという意味合いが濃くなり、武家などでは当たり前のように政略結婚が行われていた。顔も知らぬ男女がある日突然夫婦になるのは珍しいことではなかったのである。

つまるところ、歴史的に見れば夫婦というのは非常に曖昧としてて当たり前のものなのだ。曖昧だと困る人が相手を繋ぎ止めておきたく、それが婚姻という制度を作り、やっと形を保っているだけのものに過ぎない。『隣にいても一人』における夫婦という関係は、ある日突然形作られ、いつのまにか終わってしまうものであった。この作品は婚姻という形の曖昧さを鋭く風刺したもの、と見るのは考えすぎだろうか。考えすぎだろう。

神前式では神殿において先祖の神に結婚を誓う。教会式では教会でキリスト教の神に結婚を誓う。人前式で誓いを立てるのは参列者の人々に対してだ。昇平とすみえは式も挙げずに夫婦になった。最初は状況に戸惑い、兄姉達のドタバタに巻き込まれ困惑するが、やがては状況を受け入れ、ゆっくりとだが決意を固めていく。そのとき、二人はいつの間にか“夫婦”になっていたのである。人はどうすれば夫婦になるのか。難しいことはいらない。ただ、誓えばいいのだ。

熊本でギター弾いたりお芝居したりしてます。 あったかハートふれあい劇団、in.K. Musical Studio、劇団妖怪ぶるぶる絵巻。だいたいいつもさみしい。