劇団「市民舞台」の『カケナイ』は、台本が書けなくなった劇作家の話である。劇作家の家に劇団の制作や女優がやってきて台本を催促するのだが、新作の執筆が進まず劇作家は苦しみ、関係者は困り果てる。劇作家の執筆がこんなに遅れるのは初めてだという。どこの劇団にもよくある話である。コメディタッチで登場人物も個性的、分かる分かると思わせるネタが満載。とても笑える作品なのだが、途中からだんだん背筋に寒いものを感じて笑うどころではなくなってしまった。胸がなんだか苦しい。書く人にとっては他人事ではない、『カケナイ』は “才能”というやっかいなものに向き合っていた。

筋力や体力を測りたいと思ったら体力測定を行う。学力を見るならテストを受ければいい。視力や聴力ならば検査で診ることができる。身長、体重、血液、内臓の状態まで、我々の体は数値で表すことができる。では才能はどうだろうか。何かものを生み出す人が、その能力を測るにはどうすればよいのだろう。才能とはどこから来るものなのだろうか。

劇作家は劇中で才能を井戸の中のコーラに例えていた。いつもは何もしなくともシュワシュワ湧いてきていたのだそうだ。だが今はもう何も出てこない。井戸の底は暗くてよく見えない。枯れてしまったのだろうか。才能とは、その人の脳が正常に機能している限り無限に湧いて出てくるものなのか。それとも有限で、いつか無くなってしまうものなのか。分かるはずもない。才能の量を知る方法なんて無いのだ。

他人から見たら、作家が作品を生み出せることなど、当たり前の話なのだろう。制作も女優も劇作家の苦悩を知らず、「早く書いてください」としか言わない。彼がいつもどうやって作品を書いていたのか知らないから、それくらいしか言えないのだ。いや、劇作家だって自分が今までどうやって作品を書いていたのか思い出せない。いつも無意識でやれていた事が突然出来なくなった時、人は途方に暮れるしかないのである。

底が見えない暗い井戸は、何も劇作家だけに見えるものではない。何かを生み出す仕事をしている者なら一度は見たことがあるのではないか。もしまだ見たことがないのなら、これから見ることになるだろう。布団を頭から被ってだだをこねていたあの情けない劇作家は、明日の自分の姿なのだ。

『カケナイ』は作品の中で2つの道を指し示していた。劇作家が調子を取り戻して作品の続きを書けるようになる道と、結局何も書けずに終わってしまう道だ。二つの道はそれぞれ独立した別の話として描かれていたが、作家にとってこの二つの道は常に背中合わせで存在する。どちらに転ぶか分からない切り立った尾根の上を歩いているようなものなのだ。では『カケナイ』において、書けた作家と書けなかった作家を分けたものは何だったのか。作品はそこまで踏み込んではいなかったので、無理やりこじつけて考えるしかないが、一つには“情報量の差”があるかもしれない。

アメリカの実業家ジェームズ・ウェブ・ヤングが著した『アイデアのつくり方』という知的発想法の本がある。数十年間売れ続けているロングセラーだ。本によると、アイデア作成の基礎となる原理とは、「アイデアとは既存の要素の新しい組み合わせ以外の何ものでもない」「既存の要素を新しい組み合わせに導く才能は、物事の関連性を見つけ出す才能に依存するところが大きい」このたった二つであるというのだ。そして、アイデアの生産は「1.データ集め、2.データの咀嚼、3.データの組み合わせ、4.閃きの瞬間、5.アイデアのチェック」という5つの段階を経由して行われるという。

思えば書けた劇作家の周りには余計なものが数多くあった。何の為にあるのか分からない家具に、無駄だと思われる行動、うるさい登場人物が出てきたかと思えば、話の本筋と関係があるのか分からない会話が続く。もちろんそれら一つ一つが重要な伏線であり、ラストへ繋がっていくのだが、それ以外にも劇作家の周りには様々な情報が溢れていることを表していたのである。対して、書けない劇作家の周りには何もなかった。強いてあげればゲームをしていたくらいか。二人の劇作家の描かれていた時間に差があるので差が出るのは仕方ないし、そこまで深い意味が込められていた訳ではないと思うのだが、「何も無いところからは何も生まれない」この真理はちゃんと描かれていたと思う。つまり何が言いたいのかというと、作家が原稿をほったらかして遊んでても、それは執筆に必要な情報集めかもしれないから、どうか怒らないでほしい。

熊本でギター弾いたりお芝居したりしてます。 あったかハートふれあい劇団、in.K. Musical Studio、劇団妖怪ぶるぶる絵巻。だいたいいつもさみしい。